葱萬千住葱とは

千住葱とは、食文化です

「千住葱」は、実は品種の名前ではありません。

江戸時代から続く、東京・千住の地で大切に扱われてきたブランドであり、食文化そのもの。

その成立には、江戸から現代まで続く東京の葱の歴史が深く関わっています。

千住の地で育まれ、千住の市場で取引され、千住の料理人たちに愛されてきた葱——それが「千住葱」です。

江戸時代の千住と葱

葛飾北斎「冨嶽三十六景 武州千住」

江戸時代、千住は日光道中の初宿として、参勤交代をはじめ多くの人や物資が行き交う、賑やかな街でした。

葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」には千住を描いた浮世絵が3枚残されています。なかでも「武州千住」では、葱を運ぶ馬と人の姿が描かれ、千住の葱が江戸の風物詩であったことが今に伝わっています。

歌川広重「名所江戸百景 千住の大はし」

千住で育てられた葱は、江戸の青物市場のひとつ「千住市場」に集まり、隅田川を下って江戸の街中へと運ばれていきました。

葱は、江戸の食卓を支える存在だったのです。

「鴨南蛮」の南蛮は、実は葱

歌川広重「江戸高名会亭尽 木母寺雪見」

蕎麦屋のメニューでおなじみの「鴨南蛮」「カレー南蛮」。

この「南蛮」とは、実は葱のことだとご存知でしたか?

江戸時代、インドシナをはじめとする南海諸国の人々を「南蛮人」と呼んでいました。彼らが葱を好んでよく食べていたことから、葱を使った料理を「南蛮」と呼ぶようになったといわれています。

つまり「鴨南蛮」とは、鴨と葱の蕎麦のこと。蕎麦屋の主役の一つは、いつも葱でした。

関東大震災以降、千住の町には銭湯とともに蕎麦屋が急増。蕎麦に欠かせない葱の需要も、ますます高まっていきました。

明治以降には、文明開化を象徴する「牛鍋」や「泥鰌鍋」の専門店でも、千住葱は欠かせない存在として活躍します。

千住葱を守ってきた人々

葛飾北斎「冨嶽三十六景 従千住花街眺望の不二」

時代は変わり、千住界隈での葱の栽培は次第に姿を消していきました。

それでも、千住葱という食文化を絶やしてはならない——。昭和25年、その想いを共にする業者たちが立ち上がります。「千住葱商組合」の発足です。

同じ時期、かつての千住青物市場の系譜を継ぐ「山柏青果物卸売市場」も開設されました。ここは、全国で唯一「千住系の根深葱」を専門に扱う市場です。

戦中・戦後の混乱を越え、江戸時代から脈々と受け継がれてきた千住葱の文化を守るため、葱を扱う業者たちは力を合わせて歩んできました。

今日、千住葱を育てているのは、埼玉・千葉・茨城などの高い技術を持った生産者たち。「一子相伝」の技で丹精込めて作られた葱は、千住の市場に集まり、多くの料理人の手に渡っていきます。

葱萬の役割

明治18年。ひとりの男が、千住の地で葱を売り始めました。

その名は、萬太郎。

働き者だった萬太郎の名前から「葱萬」という屋号が生まれ、それから140年——。私たちは4代にわたり、千住葱一筋で歩んできました。

毎朝、市場へ。その日、最も状態の良い千住葱を目利きし、信頼でつながる飲食店へお届けする。創業以来変わらない、この地道な仕事の積み重ねが、葱萬の力の源です。

時代の流れの中で、市場や組合のあり方も少しずつ姿を変えています。だからこそ、葱萬は——江戸時代から続く「千住葱という食文化」を、140年受け継いできた目利きの力と人とのつながりを、私たちの手で、未来へ繋いでいきます。